ペンギンハイウェイ 現実主義者としての”大人”と夢追い人

 ペンギンハイウェイ 現実主義者としての”大人”と夢追い人

 

 「ペンギンハイウェイ」を観た。小説は見ていないので映画勢ということになる。

以前から存在は知っていたし、公開当時のTVcmも見ていたが、なんやかんや見なかった。自分の中での存在としては「おねショタもの」、あと最近阿部海太郎さんがST(サウンドトラック)を担当されていると知った事、いづれも表面的な解釈である。

 

早速考察を綴ろう。

今回の私的考察についてまず触れておきたいのは、先程も述べたが小説は読んでいない、且つ他の考察は全く摂取していないし、映画小説どちらの解説文も読んでいない、いわば「映画ペンギンハイウェイ」の純粋な私的考察であり、文芸作品の綿密な描写(多分)を内包したものではない。 

以上を踏まえた人物が、以下の考察を綴るということです。

 

 

・基本的な情報だけ整理する。物語の長ったらしい要約はなし。

 

 

【登場生物】

 

 アオヤマ(小4、序盤9歳、終盤10歳)お姉さん(年齢不詳、恐らく20歳) ペンギン その他姉の感情と有機物とで着床、生成とする生物 以下どうでもいいので省略

 

 

【場所】

 

 どこか新興住宅地の香りがするが、どこにでもあるありふれた、街。

(モデル地は調べていないが東海道新幹線で静岡あたりだろうか、で通る丘がありカラフルな家々が建ち並ぶ場所を想起した)

 

 

【お姉さん】

 

 お姉さんはアオヤマが大人に対する憧れが意思疎通を可とし具現化した者である。

少年が必要とする時に出てくる傾向があり、気候に感情とパフォーマンスの質の違いを左右されるきらいがある。

彼女はアオヤマ以外でも認識、会話等が可能であり、恐らく一般的な給与で働き一人暮らしを営み、一般社会に属すことができている、いわば一般人として我々に映る。

それは鑑賞者の多くが当てはまる、当てはまった、当てはまることになろう一般的な社会地位の人物像として我々に作用する。

下記のペンギンハイウェイの定義より、お姉さんは20歳を超えても大人になりきれていない子供(成人女性)ということになる。

 

 

【海とは?】

 

 お姉ちゃんは現実に満足していない。その鬱憤の具体的な指標が「海」という球体のモチーフになっている。 海の膨張現象の根源はお姉ちゃんの退屈な現実世界、自分の夢(海辺の街)と現実のギャップでじわじわと湧き上がるストレスがトリガーとなっている。

 

 

【なぜ海から離れられないのか?】

 

 海は彼女が現実(社会)を営む場所に根を張り、彼女の現実に対する不満でさらに膨張していく。 それを置いて離れようとしても彼女はまだ現実に対する姿勢を清算しきれておらず、清算せずに脱するのは逃避であり決断を放棄する事。 それは社会からの堕落を意味する。

 

 

【ペンギンハイウェイとは】

 ペンギンハイウェイとは世界へどう座礁するか(どういう大人になるか)の分岐点である。作中ではお姉さんの20歳とアオヤマの10年後(20歳)訪れるであろう明確な子供から大人への決断の分岐、として定義されていると推察する。私としてこのペンギンハイウェイは未成年から成年へ、社会的な扱いが子供から大人へと変化する時、子供の頃誰もが抱いた「夢」を捨て現実という社会の歯車の回転に諦めの従属を果たすか、自分自身で開いた活路、夢(というより自分で勝ち取った道というならより広義にはなるであろう)、これらの進路、生き方を決める時開き、通っていく道である。極端な二項だが、子供から大人へと2度目の自分の足で立ち始める人生で大きな決断は、抱いてきた夢、目標を追い続けるか、諦めていくか、極端に2つの道で定義できる気がするのである。

 

 

 

・二つの解釈 

 私には本作において二つの解釈がある。それぞれA、Bとし順に述べる。

 

 

『A』

 

 

 ここでのペンギンはその退屈な実際の現実の理解と受け入れの為に活動している=ペンギンエネルギーとは現実的な社会への参加姿勢の掲示、その増減は彼女が夢を見るのを止め、”大人”になろうとすることに対しての理解に比例する。海の解放とは現実の受け入れ、大人になり切れていない成人が「現実を現実的に考え行動する世界にありふれた”いわゆる大人”」になってしまう瞬間を意味する。

その活動を阻止する反抗心の現れとして、鯨のようなクリーチャーが存在しペンギンを抹殺する。

 

 作中頻出する世界の果て、とは2つあると考える。1つは現実を比喩した意味での「世界の果て」作中前半でアオヤマの父が布袋を用いて「内側が外側になり、袋を裏返すと、この世界は今袋のなかにあることになる、世界の外側は、この中に潜り込んでいる。」

本来の外側の世界とは五感で感じることのできる非常に大きく我々を囲む生物、植物、空気、つまり自然に存在するもの=自然(非人工的)である。反対にこの外側となった内側とは物質として存在しない、視覚化ができない世界、社会(人工的)である。それは現代人である我々を常に取り巻き完全な分離がほぼ不可能なもの。アオヤマが暮らすありふれたどこかの区画に建てられた街で起こる事全てであり、彼の「地元」であるそこも人が暮らす場所な以上ある程度のありふれた閉鎖性があり、自発性のない人間ならそこで生きて死ぬだろうという、まさにありふれた社会の形である。

 

その世界の果てまで延々と周回できるくらい続くであろうありふれた社会を「”既にここが”世界の果て」とし、その世界の果ては学校、いじめや労働者達、隣人同士の会話、カメラに映るおおよそ全てとして私たちの目に映るが、私達は違和感なく当たり前の日常としてそれを受け入れる。どう咄嗟ににその事実に気づくことができるだろうか。 何故なら、我々もそれに属している(属せざるを得ない)からだ。

 

 そのありふれた世界の果てに組み込まれていく自分に疑問を持ち、彼女はありもしない「海辺の街」を妄想し設定する。そしてその理想郷は海の中に視覚化できるものとしてそこには実在している。

 

 ペンギンハイウェイが発動し、海に入ってから実際に確認されるそこはシュルレアリスム的な世界であり、彼女の思想によって解体されたありふれた社会のモチーフとしての家たち、ありえない構造の建物群、どれも日本的ではなく、刺激的だ。彼女の思い描く世界の果てである。 この街にある暗いトンネルの奥に掃き溜められたように隅に存在する日常的、日本的な、お姉さんを創造したアオヤマを構成する物たち、彼女の根底にはアオヤマがあるという”無意識下の事実”がここで明確に出される。

 

 そして最後にはペンギンによって海は解放され、お姉ちゃんは社会に適合することを決断する、逃避、反抗をやめ笑顔で現実を受け入れた。そうして「大人」になった彼女は消えた。

 

 

『B』

 

 

 お姉ちゃんは世界の果て、ここではないどこかへ脱出したいと思っている。

ここでの世界の果ては、Aとは逆でお姉ちゃんが夢想する世界で見た、実在するかもしれない海辺の街(のような場所?)を意味する。外側になった内側(社会、人工的)で見えなくなっている、隠れた本当の世界(現実的な社会が存在しない場所)を彼女は見つめ続けている。そこには社会という見えない生き物への生きるための奉仕もなく、ロマンティックな自然像溢れるアニミズム的な本来の「世界」がもつ雄大さを帯びている。 そんな所へ行くことが、彼女の”夢”である。

ここでのペンギン(=ペンギンエネルギー)はそこへ向かう為の原動力、希望、として缶コーラから表出し、現実への鬱憤の塊であり足枷でしかない「海」を清算しきり真の解放を目的に行動している。 クリーチャーは現実の権化であり非合理的な判断を嫌い、それを体現せんとするペンギンを喰らう。

 

 よって結末で果たされるは脱出、解放であり、彼女は彼女にとって良いペンギンハイウェイを駆け抜けたと言ってよいだろう。

 

 

・海が破裂したらどうなっていたのか。

 

 AにしろBにしろ、世界全てが水の中に沈み、まさしく海辺の街になっていただろうというのが、終盤海の中で映される沈んだ自分たちが住む街にあるショッピングモールなどで暗示されている。 しかし、Aは現実を受け入れきれなかった結果としての彼女の欲求の爆発、放出であり、退廃的ではあるがこれもまたある種の解放、救済といっていいのかもしれない。

Bは望んでいない、思いがけないような結果としての水没になると思われる。 彼女は自らの夢、明確な目標として希望をもってペンギンエネルギーを行使してきたのに関わらず、”破滅的な結果として”という事を前提として実現してしまった海辺の街である。

いづれも常軌を逸した結果は作品のSFの規模を惑星レベルで上げるものであり、この作品の持つメッセージ性を薄めるものなので、是を良しとははしない。(オチとしては天気の子みたいだし、その後の起こりそうな話としては、未来少年コナンでも始まるのかってカンジだ。)

 

 

・結局お姉ちゃんとは何だったのか。

 

 9歳から10歳、半分大人と言えてしまうこの時期に現れるこの女性は、成人に、ペンギンハイウェイを10年後に控える少年の為にA、Bにしろ具体例を見せに来た未来の者のような、そういう成果の為の存在のような気がしてならない。最後のおもちゃの宇宙船からは、「この調子で、サボるなよ」というメッセージさえ感じる。

 また、「アオヤマの大人への憧れによる幻想が作り出したもの」と前述したが、識別的には人間ではないものの彼女自身の人生があり、生きたキャラクターとして彼女は実際に存在していた。現実への反抗にしろ海辺の街(世界の果て)への脱出にしろ、夢という性質はアオヤマでいう宇宙船と共通しているが、夢の内容(海の街)については彼女が持つ欲求としてアオヤマから独立している。 しかし結果はどちらにしろペンギンハイウェイを通る決断をする彼女の姿は未来のアオヤマ、今の子供達でもあり、私達かもしれない。

 

 

・最後に少し

 

 Aについては私の偏った解釈で勝ち負けでいうところの負け、のように描写しているが、半分違う。 私は最初から自分、世の中に対し諦めた姿勢でなんとなく行き着いた従属、奉仕が断固嫌なのであって、”ある程度”自分で足場を組んだ”ある程度”誇りの持てる職業なら良いのかもしれない。いや、それはまだ分からない。 まあ、就きたい職業につけたとか、閉鎖的で恒常的な地元から海外に一気に飛び出したとか、都会の暮らしを全部捨てて田舎で暮らすとか。 極端な例だが要は自分の中でのある種の夢、目標があって、それを達成できた、それで結果幸せなら勝ちと思ってるし、「結局今幸せなので、あの時のペンギンハイウェイは成功でした。」それぐらいでいいのだ。

 そういえばこの前池袋駅を歩いていると、目の前に「There is no sense we're just living.」という英文がプリントされたパーカーを着た還暦ぐらいの歩いていた。

全くその通りだと思った。なにか自分だけの価値をつけるため色々やっている自分がいうのは矛盾しているかもしれないが、そんなこと言われても真理でしかないから何も言い返せないのだ、結局そういうもなのだ。自分はこの時代に生きたただの蠅一匹。

 

 話は逸れたが、まあ今の自分としては自分を明確に位置付けれるB的なペンギンハイウェイが最適なのである。それに、まだ自分は途中で、ペンギンハイウェイを絶賛駆け抜け中という感覚も少しあったりする。差し詰めそれはどう転ぶかによって分かることだが。

そんな私のような成年を越してしまった我々でも、お姉さんという一般的な大人が起こした勇気ある決断、「ペンギンハイウェイ」に年齢なんて関係ないよとお姉さんが行動をもって教えてくれたように思え、こんな調子の乗ったことも言えてしまう。

 

アオヤマは終盤で「世界の果てを見ることは、悲しいことかもしれない。」と言う。

私は実際体験したし、社会の不条理も何度か経験してしまった。

しかしこれはアオヤマのペンギンハイウェイ。 これはアオヤマのこれからの行動で決定されていくことであり、その結果がケースAの純粋性を捨て染み渡るように社会に適合していくのか、B的に夢、目標へ突き進み自分の場所を切り開くか、まだ分からないのである。

 

彼の手記の心の対象はお姉ちゃんからクラスのあの彼女へ、お姉ちゃんは恋だった。

ペンギンか、ネコかが教えてくれた宇宙船、彼にとっての海辺の街。

未来は誰にも分からない。 が、私は勤勉な彼ならきっと笑顔で駆けるペンギンハイウェイを通ると信じているし、自分もそうありたい。 

いい作品だった。