始めに

 

これは大学の課題で行った、指定図書のレポート文、いわゆる読書感想文というものだ。classroomで綴った文章を、そのままC&Pしたらこうなった。

折角9時間通しで作成したのに、見せるのが大学の、誰かも、幾人が見るかも分からない閑寂境に放り投げるだけ。というようなことは断固として拒否したい。

なので、ここに私の記事として転用し、存分に私のブログの実績として利用させていただこうではないか。

 

 

大江健三郎著 新しい文学のために 岩波新書(新赤版)

 

教員から推薦された数々の著作物から一つ選び、読書し、文章にまとめる。

こういう読書感想文的行為は、実に中学生ぶりである、当時はただ、その本の概要をただなぞったような、AはAである。というような、それに付随した自分の情念を軽量に書き連ねたものだった。

それから長い年月が経った。課題を確認した当初は、多少文章レヴェルは上がったものの、先程のようなフォーマットの、時間的に、精神的にも疲労度が低かろう方向でこなそうと考えていた。

しかし、この著作を読み、読み終えて、再確認、気付き、学び、これらが成す有機的な知的経験を自分に与えることができた。 

それを踏まえて、ただ概要をなぞるだけでない、自分の『想像力』を働かせ、既存の読書感想文的文体から脱した、この著作を読書する時分心の内にあったことをもう一度想起しながら、自分の言葉でまとめる行為。それを通して、より深い深度で、この著作について、自分の思考に刻みたいと思う。 

 

 まず、『異化』と『想像力』、この一冊を駆け巡る2つの言葉について述べる必要がある。『異化』とはロシア・フォルマリズムの方法論であり、この著作内ではそのフォルマリストの理論家シクロフスキーの『ロシア・フォルマリズム論集』から成る大江の導きで我々読者は『異化』の定義を確認することになる。

要約すると、『異化』とは芸術の目的である認知、明視することとして”もの”を感じさせること、あるものを『異化』させることで長く難渋なものにして、”気付き”を発生させる、”もの”を”もの”と感じさせる。文学の領域のみにとどまらない、芸術の手法である。また、『異化』を発生させる、『異化』に何らかの形に影響される、それに必要なのが、後述の『想像力』である。

 ゴッホの『想像力』によって『異化』された光は、ベイコンが深層にみた人達は、ホッパーの、終末世界の香り漂うアメリカの風景は。それらを見た者は自身の視覚世界に重ねてそれらを見る。この過程で働いているものが『想像力』であり、それは既存の形を根底から変形する・歪曲する能力のことである。とすると、これらの絵を描いた3人の画家たちも、無論『想像力』を働かせたと明確な言葉の定義を以て述べることができる。

この作り手の『想像力』による『異化』、による鑑賞者の『想像力』、は詩、文学においてはひとつひとつ言葉のレヴェル、文節、文章、そのひとつのかたまり、また作品全体のつながりで行われ、そしてそれが独自の文体家のものであるなら、それはその作家の”声”となる。タルコフスキーのような映画も、Jimi Hendrixの、「地獄の黙示録」で観たような蒸し暑い、悪夢のようなベトナムで鳴り響く銃声を『想像』させる、音へと『異化』した  「Machine Gun」のように、音楽にも、芸術の根幹である『想像力』と『異化』は存在している。

何故『異化』という手法が人間に有効であり続けるのか、それは人間が知覚の自動化作用を起こすからである、それについての観察をシクロフスキーはこう述べる。

 ≪もしわれわれが知覚の一般法則を解明しようとするならば、動作というものは、習慣化するにしたがって自動的なものになる、ということがわかるであろう。たとえば、われわれの習慣的反応はすべて、無意識的、反射的なものの領域へとさっていくものである。たとえば、どなたか、ペンをはじめて手にとりながら、あるいは外国語をはじめて話してみながら味わった感覚と言うものを、一万回目にそれを繰り返してみながら味わう感覚と比較してみれば、私の言うことに賛成していただけると思う。≫

例に出たように、我々は同じあるものの知覚・反応において、その知覚・反応が繰り返されれば繰り返されるほどに、刺激は減少し、自動化されていく。いわゆる、”当たり前の感覚”である。さらにシクロフスキーはその自動化作用がもつ恐ろしさについても自論を展開する。

 ≪こうして無に帰せられながら、生活は消え去っていくのである。自動化作用は、ものを、衣服を、家具を、妻や戦争の恐怖をのみ込んでいくのである。≫

これは今の私達にも言える事ではないだろうか?私が今から約1年前に感じた、全身を震え上がらせ取り憑いて離れない、本当に始まってしまった、という戦争の恐怖。あの瞬間感じた恐ろしさは、果たして今も、同じレヴェルで自分の中に存在しているのだろうか?

 

その自動化作用の恐ろしさは、大江が一冊を通し主張する、核戦争の恐怖に対しても同じことが言えることを私自身も確認せざるを得なかった。「核の冬」、その最悪に対し人間は、原爆攻撃を受け陰惨な目に遭った我々日本人は、どのような祈りの態度を取らんとしべきか。

大江が原爆病院で見た、核がもたらす大きい悲惨、人間の苦しみ、その最悪から人間らしい威厳・再生への希望。そこから受け取った、障害を持った息子との、新しい苦しみが絶えない日々を乗り越える励まし...これらを総ぐるみに表現したものを、大江の「最後の小説」としたいということが、最終章で語られる。

 

結びとしては、このように大江の人生のイデアと自作の展望とを露出した形であったが、他の章では、綿密に『異化』、『想像力』の言葉をもって、文学、ひいては文芸の原理を、十三世紀の『古今著文集』からドストエフスキー俵万智といった現代の詩まで、偉大な文芸作品とともに解いていく。

 私が特に興味深いと感じたのは11章から説かれる言葉が持つ神話的権威、についてである。この章では、「道化」という言葉が持つ神話的な力を、常識的な行動を逸脱し、突飛な考えでしかない、「愛の千年王国」の実現を信じる2人の兄妹が紡ぐ、ローベルト・ムジールの「特性のない男」の第三部を例に、神話的な力のある言葉と、それによる文学について説く。

常識を逸脱した行動は、作中の兄妹が纏う道化師のようなパジャマの描写、妹が兄を「月に憑かれたピエロ」と呼び、道化師がもつ楽器を妹が身の周りに置いているという描写...これらの度重なる強調で読者はメタファー、シンボリズム、そして物語のレヴェルでとらえなおす時、それは「道化の神話」となり、突飛な考えも、禁忌を冒す常識外の行為も、「道化」という言葉が持つ、≪世界の秩序をひっくり返す。上下の秩序を転倒させる役割を果たすかと思うと、天と地のようにかけはなれたものを、かえって結びつける役割をはたす。宇宙論的な想像力の働く世界で、仲介者・媒介者の役割を果たしている。≫という神話的力に還元できるのである。といった文学のしかけについての話である。

この神話的な言葉、そのオルガニズムとしての神話の力を憑依させたメディアは、日頃ありとあらゆるものに顕著にみられる。しかし、それはもう、源流である神話も見えないくらい上書きされたもあるし、神話の設定をそのまま転用したものもまだまだ多い。例えば、今私のデスクから周りを見渡した時発見できる、前者の例を出すと、ルパン三世海がきこえる。どちらも徹底した検証をしたわけでは無いが、文脈を辿っていくと、きっとどちらも神話的な源流があるはずである、それを遥か昔に死んだ誰かが『想像力』で歪曲、『異化』した。その連鎖で今のものがあるのだ。文学は、文芸は、文化は、そういう風に繋がっている、ということだ。勿論、例に出た漫画にも、そう言えるはずだ。

 このように私は、『異化』、『想像力』に代表されるように、文学、文芸の原理を大江の手解きで学んだ。加えて、大江がいう「核の冬」について、毎年8月、原爆と戦争がもたらす悲惨さを、義務教育が及んだ間、文化ホールで流される映像や、今はもう亡くなっているかもしれない被爆者の話を通して学んだ一人の日本人として、自動化作用の恐ろしさと併せ改めて深く意識したのだ。

全てを踏まえ、素晴らしい読書体験であった。また、読書感想文的文体から脱せられていると良いのだが。あの9、10章で明確に定義された”書くため、読むための理論”、これは、これから本を読むたびに頭の中でこの理論を通り抜け、より私の思考に染み込んでいくことだろう。これは、いわば自動化作用の、恐ろしいだけでない、良い点とも言えるだろうか。

 

うーむ。文学の理論だけを学ぶ本かと思っていたのに、おもわぬ副次的利益、芸術作品を、主に私の場合は絵画だったが、見たときに感じるまず第一の「謎」の正体は、異化されたものだったと定義できる、という事を知ったわけだ。これで次からこの現象を「異化された」ものだと頭の中で位置づけ、考えることができる。想像力についての定義もあらゆる点で役に立ちそうである。

 

やはり頭の中で敷衍しながら文字を読み通すのも大いに正しい読書であるが、それらをこうして文章として、頭の中を整理し抽出する行為も行ってこそ、完全にその本を「読書した」といえるのではないか。それを今回の執筆行為を通して明確に意識できた。 そうか、読書という言葉は「読む」と「書く」か。この語を創造した方も、本、文章を理解する為に行なっていた自分の本への接し方を、帰納的に考えこの語を造ったのであろうか。

ペンギンハイウェイ 現実主義者としての”大人”と夢追い人

 ペンギンハイウェイ 現実主義者としての”大人”と夢追い人

 

 「ペンギンハイウェイ」を観た。小説は見ていないので映画勢ということになる。

以前から存在は知っていたし、公開当時のTVcmも見ていたが、なんやかんや見なかった。自分の中での存在としては「おねショタもの」、あと最近阿部海太郎さんがST(サウンドトラック)を担当されていると知った事、いづれも表面的な解釈である。

 

早速考察を綴ろう。

今回の私的考察についてまず触れておきたいのは、先程も述べたが小説は読んでいない、且つ他の考察は全く摂取していないし、映画小説どちらの解説文も読んでいない、いわば「映画ペンギンハイウェイ」の純粋な私的考察であり、文芸作品の綿密な描写(多分)を内包したものではない。 

以上を踏まえた人物が、以下の考察を綴るということです。

 

 

・基本的な情報だけ整理する。物語の長ったらしい要約はなし。

 

 

【登場生物】

 

 アオヤマ(小4、序盤9歳、終盤10歳)お姉さん(年齢不詳、恐らく20歳) ペンギン その他姉の感情と有機物とで着床、生成とする生物 以下どうでもいいので省略

 

 

【場所】

 

 どこか新興住宅地の香りがするが、どこにでもあるありふれた、街。

(モデル地は調べていないが東海道新幹線で静岡あたりだろうか、で通る丘がありカラフルな家々が建ち並ぶ場所を想起した)

 

 

【お姉さん】

 

 お姉さんはアオヤマが大人に対する憧れが意思疎通を可とし具現化した者である。

少年が必要とする時に出てくる傾向があり、気候に感情とパフォーマンスの質の違いを左右されるきらいがある。

彼女はアオヤマ以外でも認識、会話等が可能であり、恐らく一般的な給与で働き一人暮らしを営み、一般社会に属すことができている、いわば一般人として我々に映る。

それは鑑賞者の多くが当てはまる、当てはまった、当てはまることになろう一般的な社会地位の人物像として我々に作用する。

下記のペンギンハイウェイの定義より、お姉さんは20歳を超えても大人になりきれていない子供(成人女性)ということになる。

 

 

【海とは?】

 

 お姉ちゃんは現実に満足していない。その鬱憤の具体的な指標が「海」という球体のモチーフになっている。 海の膨張現象の根源はお姉ちゃんの退屈な現実世界、自分の夢(海辺の街)と現実のギャップでじわじわと湧き上がるストレスがトリガーとなっている。

 

 

【なぜ海から離れられないのか?】

 

 海は彼女が現実(社会)を営む場所に根を張り、彼女の現実に対する不満でさらに膨張していく。 それを置いて離れようとしても彼女はまだ現実に対する姿勢を清算しきれておらず、清算せずに脱するのは逃避であり決断を放棄する事。 それは社会からの堕落を意味する。

 

 

【ペンギンハイウェイとは】

 ペンギンハイウェイとは世界へどう座礁するか(どういう大人になるか)の分岐点である。作中ではお姉さんの20歳とアオヤマの10年後(20歳)訪れるであろう明確な子供から大人への決断の分岐、として定義されていると推察する。私としてこのペンギンハイウェイは未成年から成年へ、社会的な扱いが子供から大人へと変化する時、子供の頃誰もが抱いた「夢」を捨て現実という社会の歯車の回転に諦めの従属を果たすか、自分自身で開いた活路、夢(というより自分で勝ち取った道というならより広義にはなるであろう)、これらの進路、生き方を決める時開き、通っていく道である。極端な二項だが、子供から大人へと2度目の自分の足で立ち始める人生で大きな決断は、抱いてきた夢、目標を追い続けるか、諦めていくか、極端に2つの道で定義できる気がするのである。

 

 

 

・二つの解釈 

 私には本作において二つの解釈がある。それぞれA、Bとし順に述べる。

 

 

『A』

 

 

 ここでのペンギンはその退屈な実際の現実の理解と受け入れの為に活動している=ペンギンエネルギーとは現実的な社会への参加姿勢の掲示、その増減は彼女が夢を見るのを止め、”大人”になろうとすることに対しての理解に比例する。海の解放とは現実の受け入れ、大人になり切れていない成人が「現実を現実的に考え行動する世界にありふれた”いわゆる大人”」になってしまう瞬間を意味する。

その活動を阻止する反抗心の現れとして、鯨のようなクリーチャーが存在しペンギンを抹殺する。

 

 作中頻出する世界の果て、とは2つあると考える。1つは現実を比喩した意味での「世界の果て」作中前半でアオヤマの父が布袋を用いて「内側が外側になり、袋を裏返すと、この世界は今袋のなかにあることになる、世界の外側は、この中に潜り込んでいる。」

本来の外側の世界とは五感で感じることのできる非常に大きく我々を囲む生物、植物、空気、つまり自然に存在するもの=自然(非人工的)である。反対にこの外側となった内側とは物質として存在しない、視覚化ができない世界、社会(人工的)である。それは現代人である我々を常に取り巻き完全な分離がほぼ不可能なもの。アオヤマが暮らすありふれたどこかの区画に建てられた街で起こる事全てであり、彼の「地元」であるそこも人が暮らす場所な以上ある程度のありふれた閉鎖性があり、自発性のない人間ならそこで生きて死ぬだろうという、まさにありふれた社会の形である。

 

その世界の果てまで延々と周回できるくらい続くであろうありふれた社会を「”既にここが”世界の果て」とし、その世界の果ては学校、いじめや労働者達、隣人同士の会話、カメラに映るおおよそ全てとして私たちの目に映るが、私達は違和感なく当たり前の日常としてそれを受け入れる。どう咄嗟ににその事実に気づくことができるだろうか。 何故なら、我々もそれに属している(属せざるを得ない)からだ。

 

 そのありふれた世界の果てに組み込まれていく自分に疑問を持ち、彼女はありもしない「海辺の街」を妄想し設定する。そしてその理想郷は海の中に視覚化できるものとしてそこには実在している。

 

 ペンギンハイウェイが発動し、海に入ってから実際に確認されるそこはシュルレアリスム的な世界であり、彼女の思想によって解体されたありふれた社会のモチーフとしての家たち、ありえない構造の建物群、どれも日本的ではなく、刺激的だ。彼女の思い描く世界の果てである。 この街にある暗いトンネルの奥に掃き溜められたように隅に存在する日常的、日本的な、お姉さんを創造したアオヤマを構成する物たち、彼女の根底にはアオヤマがあるという”無意識下の事実”がここで明確に出される。

 

 そして最後にはペンギンによって海は解放され、お姉ちゃんは社会に適合することを決断する、逃避、反抗をやめ笑顔で現実を受け入れた。そうして「大人」になった彼女は消えた。

 

 

『B』

 

 

 お姉ちゃんは世界の果て、ここではないどこかへ脱出したいと思っている。

ここでの世界の果ては、Aとは逆でお姉ちゃんが夢想する世界で見た、実在するかもしれない海辺の街(のような場所?)を意味する。外側になった内側(社会、人工的)で見えなくなっている、隠れた本当の世界(現実的な社会が存在しない場所)を彼女は見つめ続けている。そこには社会という見えない生き物への生きるための奉仕もなく、ロマンティックな自然像溢れるアニミズム的な本来の「世界」がもつ雄大さを帯びている。 そんな所へ行くことが、彼女の”夢”である。

ここでのペンギン(=ペンギンエネルギー)はそこへ向かう為の原動力、希望、として缶コーラから表出し、現実への鬱憤の塊であり足枷でしかない「海」を清算しきり真の解放を目的に行動している。 クリーチャーは現実の権化であり非合理的な判断を嫌い、それを体現せんとするペンギンを喰らう。

 

 よって結末で果たされるは脱出、解放であり、彼女は彼女にとって良いペンギンハイウェイを駆け抜けたと言ってよいだろう。

 

 

・海が破裂したらどうなっていたのか。

 

 AにしろBにしろ、世界全てが水の中に沈み、まさしく海辺の街になっていただろうというのが、終盤海の中で映される沈んだ自分たちが住む街にあるショッピングモールなどで暗示されている。 しかし、Aは現実を受け入れきれなかった結果としての彼女の欲求の爆発、放出であり、退廃的ではあるがこれもまたある種の解放、救済といっていいのかもしれない。

Bは望んでいない、思いがけないような結果としての水没になると思われる。 彼女は自らの夢、明確な目標として希望をもってペンギンエネルギーを行使してきたのに関わらず、”破滅的な結果として”という事を前提として実現してしまった海辺の街である。

いづれも常軌を逸した結果は作品のSFの規模を惑星レベルで上げるものであり、この作品の持つメッセージ性を薄めるものなので、是を良しとははしない。(オチとしては天気の子みたいだし、その後の起こりそうな話としては、未来少年コナンでも始まるのかってカンジだ。)

 

 

・結局お姉ちゃんとは何だったのか。

 

 9歳から10歳、半分大人と言えてしまうこの時期に現れるこの女性は、成人に、ペンギンハイウェイを10年後に控える少年の為にA、Bにしろ具体例を見せに来た未来の者のような、そういう成果の為の存在のような気がしてならない。最後のおもちゃの宇宙船からは、「この調子で、サボるなよ」というメッセージさえ感じる。

 また、「アオヤマの大人への憧れによる幻想が作り出したもの」と前述したが、識別的には人間ではないものの彼女自身の人生があり、生きたキャラクターとして彼女は実際に存在していた。現実への反抗にしろ海辺の街(世界の果て)への脱出にしろ、夢という性質はアオヤマでいう宇宙船と共通しているが、夢の内容(海の街)については彼女が持つ欲求としてアオヤマから独立している。 しかし結果はどちらにしろペンギンハイウェイを通る決断をする彼女の姿は未来のアオヤマ、今の子供達でもあり、私達かもしれない。

 

 

・最後に少し

 

 Aについては私の偏った解釈で勝ち負けでいうところの負け、のように描写しているが、半分違う。 私は最初から自分、世の中に対し諦めた姿勢でなんとなく行き着いた従属、奉仕が断固嫌なのであって、”ある程度”自分で足場を組んだ”ある程度”誇りの持てる職業なら良いのかもしれない。いや、それはまだ分からない。 まあ、就きたい職業につけたとか、閉鎖的で恒常的な地元から海外に一気に飛び出したとか、都会の暮らしを全部捨てて田舎で暮らすとか。 極端な例だが要は自分の中でのある種の夢、目標があって、それを達成できた、それで結果幸せなら勝ちと思ってるし、「結局今幸せなので、あの時のペンギンハイウェイは成功でした。」それぐらいでいいのだ。

 そういえばこの前池袋駅を歩いていると、目の前に「There is no sense we're just living.」という英文がプリントされたパーカーを着た還暦ぐらいの歩いていた。

全くその通りだと思った。なにか自分だけの価値をつけるため色々やっている自分がいうのは矛盾しているかもしれないが、そんなこと言われても真理でしかないから何も言い返せないのだ、結局そういうもなのだ。自分はこの時代に生きたただの蠅一匹。

 

 話は逸れたが、まあ今の自分としては自分を明確に位置付けれるB的なペンギンハイウェイが最適なのである。それに、まだ自分は途中で、ペンギンハイウェイを絶賛駆け抜け中という感覚も少しあったりする。差し詰めそれはどう転ぶかによって分かることだが。

そんな私のような成年を越してしまった我々でも、お姉さんという一般的な大人が起こした勇気ある決断、「ペンギンハイウェイ」に年齢なんて関係ないよとお姉さんが行動をもって教えてくれたように思え、こんな調子の乗ったことも言えてしまう。

 

アオヤマは終盤で「世界の果てを見ることは、悲しいことかもしれない。」と言う。

私は実際体験したし、社会の不条理も何度か経験してしまった。

しかしこれはアオヤマのペンギンハイウェイ。 これはアオヤマのこれからの行動で決定されていくことであり、その結果がケースAの純粋性を捨て染み渡るように社会に適合していくのか、B的に夢、目標へ突き進み自分の場所を切り開くか、まだ分からないのである。

 

彼の手記の心の対象はお姉ちゃんからクラスのあの彼女へ、お姉ちゃんは恋だった。

ペンギンか、ネコかが教えてくれた宇宙船、彼にとっての海辺の街。

未来は誰にも分からない。 が、私は勤勉な彼ならきっと笑顔で駆けるペンギンハイウェイを通ると信じているし、自分もそうありたい。 

いい作品だった。